『天の夕顔』の作者で有名な中河与一が新感覚派の旗手として、昭和初期の文芸復興に積極的な評論家としても活躍していたことは意外に知られていない。とりわけ昭和四年の形式主義文芸論と昭和一〇年の偶然文学論は、どちらも既存文学を乗り越えようとする、意欲に満ちた仕事である。しかしながら、形式論と偶然論という二つの系統の仕事は、研究史において連続的にとらえられることは少なかった。本稿では、両系統を結ぶ「飛躍」という語に着目して、その言葉の文脈となっていたベルクソン哲学と小松清の行動主義文学論の影響を考えつつ、中河与一初期評論を総合的通時的に考察する。
【中河与一略年譜】
昭和30(1897)年 東京上野にて誕生。
大正8(1919)年 22歳。早稲田大学予科文学部に入学。この頃から小説を書き始める。短編「或る心中の話」を『文藝春秋』(11月)に発表。
大正13(1924)年 27歳。10月、片岡鉄兵、横光利一、川端康成などと共に同人雑誌『文芸時代』を創刊。
昭和3(1928)年 31歳。11月から形式主義文学論争の端緒となる諸論文を発表。
昭和4(1929)年 32歳。形式主義文学論争が激化。翌年1月、『形式主義芸術論』(新潮社)を刊行。
昭和10(1935)年 38歳。2月、『東京朝日新聞』に「偶然の毛毬」を発表し、偶然文学論争が始まる。10月、『偶然と文学』(第一書房)を刊行。