戦後文学時史上で特異な価値を占める作家、埴谷雄高の大小説『死霊』は未完のまま終っている。その原因の一つは、彼が小説に盛り込む筈であり、体験的に得た政治論的アイディアを他の評論文に書き散らしてしまったことにある。統合計画㈠㈡を経て、埴谷の政治=存在論の革命の構想には大きな困難があることを確認した。しかし、革命の夢はそこで諦められているのではない。統合計画㈢では、㈠㈡で考察してきた対象を二種のオーガニゼーションとして捉えなおし、それに対抗しうる第三種のオーガニゼーションを考える。第三種とは文学という創作の形式そのものだ。本稿では特に書物の生成プロセスに等しい活版印刷についての埴谷の経験を導入にして、文学がもつ革命の可能性、そして謎めいた概念「虚体」への一解釈を試みる。
【埴谷雄高略年譜】
1909(明治42)年 台湾・新竹に生れる。本名般若豊。
1923(大正12)年 東京、板橋に移転。
1928(昭和3)年 日本大学予科入学。
1931(昭和6)年 21歳。日本共産党の入党し、地下生活に入る。
1932(昭和7)年 3月、逮捕され富坂警察署に留置。
1933(昭和8)年 転向上告書を提出し出所。「スパイリンチ殺人事件」の報に接する。
1945(昭和20)年 35歳。『死霊』執筆と雑誌『近代文学』創刊の準備。
1948(昭和23)年 38歳。『死霊』第Ⅰ巻(一章から三章)を刊行。
1949(昭和24)年 11月、『死霊』四章の連載が中断。
1956(昭和31)年 評論「永久革命者の悲哀」を『群像』に発表。花田清輝との論争。以後、政治論文を続けて発表し、スターリン批判の先駆的理論家として認められるようになる。
1960(昭和35)年 50歳。政治論文集『幻視のなかの政治』を刊行。
1965(昭和40)年 『死霊』執筆を本格的に再開。
1976(昭和51)年 66歳。定本『死霊』(一章から五章)を刊行。
1995(平成7)年 85歳。『死霊』九章「《虚体論》――大宇宙の夢」未完のまま発表。
1997(平成9)年 二月一日、自宅にて死去。