中河与一『愛恋無限』は昭和10年から翌年にかけて『東京・大阪朝日新聞』で連載された、中河を代表する長篇小説である。このテクストには、同時期に展開されていた中河の偶然文学論の企図が明示的にこめられている。プロレタリア文学や私小説を歴史的必然性や日常性によって拘束された文学だと退け、「偶然」の要素を小説に取り入れよ、というスローガンはどのような仕方で実作化されたのか。『愛恋無限』を競馬と結婚の二つの「円」の物語として読むことで、その詳細と、のちに認められる中河のナショナリズムの萌芽を読解する。
【目次】
一、偶然を描く?
二、第一の円
三、第二の円
四、縁を囲う隔絶空間
【『愛恋無限』梗概】
経営の危機のさなかにある繁野医療器械店の令嬢である智子と、東京競馬倶楽部の騎手である志村典雄(すけお)は、ひょんなことから乗馬を通じて知り合いになる。馬によって、二人の仲はより親密になっていくが、智子は傾く会社を救うため自分の意に添わない結婚を強要されるようになる。また、典雄の方も、智子との別れを言い渡されつつ、彼女の会社ため、智子の愛馬エミリードに乗って障害物レースで勝たなければならなくなった。しかし、最終レースのさなか、典雄が落馬して大怪我を負った事故をきっかけにして、智子は誰とも結婚しないことを決意する。智子の母の兼子とともに、二人は瀬戸内海の孤島で静かに暮らすのであった。
【略年譜】
昭和10(1935)年 偶然文学論を展開し論争を繰り広げる。短篇『円形四ツ辻』を『文芸春秋』(2月)に発表。翌年にかけて『愛恋無限』を『東京・大阪朝日新聞』に連載。
昭和12年(1937)年 ナショナリスティックな方向を明らかにした評論『万葉の精神』(千倉書房)を刊行。
昭和14年(1939)年 九鬼周造「驚きの情と偶然性」を『哲学研究』(2月)が発表。