昭和11年、日中戦争の始まる前の年、新潟県村上市の女学校に勤めていた私の父は、近くの瀬波温泉の旅館の娘である母と出会った。母は、東京の女子高等師範を出て、家事科の教師をしていた。賢い女性の好きな父、当時としては珍しく「共に」学び、共に働く」共働きの結婚生活を理想としていた。勤め先の関係で、別居結婚、土・日にだけ一緒に暮らせる「七夕夫婦」であったが、父はそれを良しとしていた。が、やがて戦争が始まり、理科の教師であった父は、軍需工場の研究室に勤めるようになる。姉・比佐子も生まれ、家庭と仕事の両立のできない母は、専業主婦となる。そして私・洋子が生まれたが、戦局はますます悪化し、当時住んでいた浦和市も空襲された。一家は新潟県の田舎に疎開する。富山の工場に勤めていた父は、敗戦とともに失業し、新潟に帰り、そこの師範学校の教師となる。ベビーブームで妹・美代子も生まれた。が、組合運動をしてレッドパージにあった父は、またも失業し、母は中学校の数学教師として再就職した。まだ学齢前の妹をかかえ、生活は大変だった。これ以後、共働きの両親の許で、姉、私、妹の生活が続く。それぞれの進学、結婚……やがて老いた両親の介護、死、その後……と続く。