福祉のひろば 2012年12月号 【特集】シングルマザーの貧困と福祉─幸せに生きるための応援歌はあるのか

福祉のひろば 2012年12月号 【特集】シングルマザーの貧困と福祉─幸せに生きるための応援歌はあるのか

販売価格:440円 (税込)
状態 完成
最終更新日 2013年05月20日
ページ数 PDF:88ページ
内容紹介

シングルマザーの貧困と福祉
──幸せに生きるための応援歌はあるのか──

1937(昭和12)年、母子保護法が制定された。その4年前に児童虐待防止法が生まれている。『大阪府社会事業史』(1958年、大阪社会福祉協議会発行)の「第8章 近代の社会事業 第4期」第5節に「児童保護事業」が掲載されている。その第3項に「母子保護事業」がある。

「昭和6(1931)年の満州事変の勃発は我国の政治経済の進路を戦争へと転換せしめ、そのため跛行的な軍需産業景気が到来し、巷に氾濫するカフェー、バー等には夜ごと『歌わせてちょうだい』と金銭をねだる少女の姿が増加し、一方農村の不況による生活上の困窮は、子どもを中心に多くの悲惨事を生み、児童の虐待、欠食児童、身売り等の問題が山積し世人の注目を引くようになった。児童虐待防止法はこうした現実をできるだけ防止するために生まれたのである。」

現在の橋下市政からは考えられないが、大阪市はこの当時、全国に先駆けて乳幼児保護を行っていた。たとえば、1924(大正13)年度より訪問看護婦を設置し、「中産以下の出産のあった家庭を訪問せしめ、一定の訪問票により家庭の状況、既往及び現在歴、栄養法等を尋ね、誤った点には注意を与え、各種の相談に応じ丁寧に指導せしめた。その結果、日を経るに従い乳幼児保護に関する関心が高まり、これを機として直接乳児院に出かけ、保育に関して直接医員に関する指導を受けんとする者が増加した。訪問看護婦はすべて産婆と看護婦の資格を有し、採用後1ヶ月間毎日数時間育児に関する教育を受けた者のみで、昭和10(1935)年現在各乳児院に4名配置されていた」。その当時、全国で乳児院は18か所だったが、大阪府内には4か所あった(ちなみに東京は8か所)。