私は2009年夏、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書)という本を上梓し、そのなかでマスメディアがなぜ立ち行かなくなっているのかをビジネス構造の観点から論じた。なぜビジネス的に描いたかと言えば、それまで出回っていたマスメディア論の多くが、「日本の新聞は言論が劣化している」「新聞記者の質が落ちている」といった情緒論ばかりだったことに辟易していたからである。そうした情緒論ではなく、純粋にビジネス構造の変化からマスメディアの衰退を論じようとしたのが同書だった。
本書はその続編に当たる。今回はビジネス論ではなく、ただひたすらその言論の問題を取り上げた。しかし私は巷間言われているような「新聞記者の質が落ちた」「メディアが劣化した」というような論には与しない。そんな論はしょせんは「今どきの若い者は」論の延長でしかないからだ。
そのような情緒論ではなく、今この国のメディア言論がなぜ岐路に立たされているのかを、よりロジカルに分析できないだろうか----そういう問題意識がスタート地点にあった。つまりは「劣化論」ではなく、マスメディア言論が2000年代以降の時代状況に追いつけなくなってしまっていることを、構造的に解き明かそうと考えたのである。
本書のプランは2009年ごろから考えはじめ、そして全体の構想は2011年春ごろにほぼ定まった。しかしその年の春に東日本大震災が起き、問題意識は「なぜマスメディア言論が時代に追いつけないのか」ということから大きくシフトし、「なぜ日本人社会の言論がこのような状況になってしまっているのか」という方向へと展開した。だから本書で描かれていることはマスメディア論ではなく、マスメディアもネットメディアも、さらには共同体における世間話メディアなども含めて日本人全体がつくり出しているメディア空間についての論考である。
【特典】
光文社新書版に加えて、推敲の段階で削った「なぜゼロリスク幻想は生まれてきたのか」というまるごと1章分を補遺として掲載。
| プロローグ 三つの物語 |
| 第1章 夜回りと記者会見—二重の共同体 |
| 警視庁の不思議な慣習 |
| 「表情を読み取れなかったあなたが悪い」 |
| 記者と刑事の禅問答 |
| 「サツ官ならイエスです」という皮膚感覚 |
| 最強の事件記者たち |
| 東京行きのチケットをつかむ競争 |
| 記者と警察当局がつくる三つの共同体性 |
| いったい何が警察と記者を結びつけているのか |
| 「夜回り」と「記者会見」という二重性 |
| ウラの関係性はオモテでは表出されない |
| 皆が集まる広場は存在しない |
| そもそも共同体とは何か |
| ソーシャルメディアと<夜回り共同体> |
| 「はてな村」は何で結ばれているのか? |
| フィード型という新しいソーシャルメディア |
| 共同体は可視化されてこなかった |
| 複雑で濃密な二重の共同体 |
| 戦後社会がつくり上げた情報と世論の交換システム |
| 視座はどこにあるのか? |
| 第2章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか |
| 吉本隆明が論じた大衆の原像 |
| 中間文化がつくりだしたもの |
| 新たな階層社会の出現 |
| 市民運動とはいったい何だったのか? |
| 市民運動の「金太郎アメ現象」の本質 |
| 新聞記者は市民運動を嫌っている |
| 市民運動に対するアンビバレントな感情 |
| 「無辜の庶民」と「プロ市民」の間に |
| 新聞記者が思い浮かべる「市民」像とは |
| 市民とメディアのねじくれた構造 |
| <市民>はいったい誰を代弁しているのか? |
| 第3章 一九七〇年夏のパラダイムシフト |
| 「加害者視点」が存在しなかった戦後日本 |
| 「軍部が悪い」というロジック |
| 異邦人は戦後日本でどう扱われてきたのか |
| 片言の日本語をしゃべる在日二世たち |
| 不気味で怖い存在としての「在日」 |
| 「ボクを異国人扱いするな」とアイヌ記者は叫んだ |
| 「ノルウェイの森」で緑が語ったこと |
| 一九六〇年代の女性が抱えた二つの葛藤 |
| 東大闘争は何を目指したのか |
| 自己批判の理念とその困難さ |
| 「わたしたちの無関心の暗い空洞」 |
| 小田実が切りひらいた世界とは |
| 「戦争加害者」という新しい視点の出現 |
| 「日本民族の犯罪をひきうけなければ」 |
| 中国人青年の自殺 |
| 詩では自己否定を乗り越えられない |
| 「われらの内なる差別」 |
| 一九七〇年七月七日の告発 |
| 学生運動が見いだした新たな突破口 |
| 第4章 異邦人に憑依する |
| マイノリティ論のオーバードースとは何か |
| <被害者=加害者>論の光と影 |
| 「辺境最深部に向けて退却せよ!」 |
| 辺境最深部から日本社会を見下ろす |
| 死刑囚・大森勝久が選んだ「地獄への旅」 |
| 「反日亡国論」の狂気 |
| 市民とは何だったのか |
| メディアと<マイノリティ憑依>をつなぐ本多勝一 |
| 本多・山口論争が浮かび上がらせた問題 |
| 加害者と被害者の間にいるということ |
| 「私は殺される側に立つ」という論理 |
| <マイノリティ憑依>から見える気持ちのよい景色 |
| 津村喬の苛立ちと反論 |
| 「殺される側」に立つことによる無限の優位性 |
| 第5章 「穢れ」からの退避 |
| 神は舞い降りてくる |
| 本殿も拝殿もない神社の隠された意味 |
| 何もない空間の絶対性 |
| 神はつねに外から来て外へと帰っていく |
| 汚れた人間社会、清浄な神の領域 |
| 戦死した兵士たちをどう扱えばいいのか? |
| 第6章 総中流社会を「憑依」が支えた |
| アル・ジョルソンの人生 |
| 黒人に扮して歌い踊る大衆文化の末裔として |
| なぜアル・ジョルソンは忘れられたのか |
| 自動車王フォードに排斥されたユダヤ人 |
| 黒人への<マイノリティ憑依> |
| 総中流社会を憑依が支えた |
| バブル時代に連載された「飽食窮民」という記事 |
| 「弱者に光を当て、われらの社会を逆照射せよ」 |
| 幻想のマイノリティに落とし込まれるシステムエンジニアたち |
| この記事は誰に送り届けられているのか |
| 圏域が同じでなければ共有されない |
| エンターテインメントに傾斜する |
| 一九九〇年代後半の転換点 |
| エンターテインメントとメディア空間の結節点 |
| 五五年体制と<マイノリティ憑依>をつなぐもの |
| 構造はついに明らかになった |
| しかし道は途絶えている |
| 終章 当事者の時代に |
| 新宿西口バス放火事件の夜 |
| 彼はなぜ報道カメラマンになったのか |
| なぜ彼女はバスから逃げ遅れたのか |
| 周囲の目は冷たかった |
| 事件は家族の生活を破壊しつくした |
| 「映画のセットみたいですよね」 |
| 被災地の瓦礫は二重の層でできている |
| なぜ河北新報の記事は人の心を打ったのか |
| われわれは望んで当事者にはなれない |
| 他者に当事者であることを求めることはできない |
| そこで私には何ができるのか |
| あとがき |
| 補遺 なぜゼロリスク幻想は生まれてきたのか |
| 参考文献リスト |
| 奥付 |
| 奥付 |