二千五百年ほど前に釈尊が明けの明星を見て覚り、生き身のブッダとなって、人々に教えを説いた。そして、その後、現在に至るまでにさらに少なからぬブッダが世に出現し、時代に合わせてそれぞれに理法を説いた。その結果、世には多くの経典が存在することとなったわけである。もちろん、これは人々が自分に合った経典を選び出し、その上で覚りをめざすことができるようになったという意味では、まことに喜ばしいことであった筈である。
それにも関わらず、実際には、時代が下るにつれて作仏する修行者が減り、ここ数百年間においてはその痕跡さえ見られないありさまとなっている。
なぜ、このような事態に陥ってしまったのであろうか。それは、それぞれの経典が作られた時代には普通に理解された教説の真意が、時を経るとともに正しく理解されなくなってしまったためであろうと考えられる。
すなわち、往時には誰もが当たり前に理解できることとして特に記録に残されなかったり、説明するまでもない自明のこととされていたことがらが、時代が下るとともにその本当の意味が見失われてしまったからに違いあるまい。そして、そのまま現在へと至り、仏教にまつわるあらゆることがらに関して諸説入り乱れる状態となってしまったのであろう。
その最たるものは、覚りが何であるのかという基本的なことさえ不明瞭となってしまったことである。また、本来すぐれた教えである大乗仏教を、非仏説であるなどと決めつける誤った見解の出現もそうである。
本書は、現在の仏道修行者に、往時の仏教のことがらについての理法に適った、正しい情報を提供することを目的として著されたものである。
具体的には、釈尊の成道の経緯やその後の布教活動、また主要な大乗経典の意義について、現代のブッダたる私(=SRKWブッダ)が、往時のできごとについての推認を行い、それぞれのことがらの真意や真相をかみ砕いて述べたものである。
もちろん、現在に伝わる往時の情報は断片的で不明瞭、かつ限られており、ことの真意や真相を正しく再現することには限界がある。そのことを承知した上で行う推認であるので、これを「一応の推認」と呼ぶことにする。ただし、この推認は、覚りの地平に立つブッダが、過去の仏たちの教説の真意について考究して見い出した景色の表明であり、ここに敢えて一応という言葉を冠するが、この推認は実際には完全なる推認であることを自負するものである。
こころある人は、本書を読むことで、霧に包まれたようにモヤモヤしている仏教のことがらが明瞭となり、引いては仏教そのものについての正しい理解を生じるであろう。加えて、修行にまつわる無益な探求を減らすことに役立ち、あるいは仏教への根本の疑念を払拭せしめ、仏道修行に専念することができるようになるであろう。そして、しっかりと功徳を積むことができるようになるであろう。
| はじめに |
| はじめに |
| 原始仏典 |
| 覚りとは何か |
| 釈尊の出自と成道までの経緯 |
| 四門出遊 |
| 無所有処および非想非非想処 |
| 苦行 |
| スジャータ |
| 明けの明星 |
| 解脱の実際 |
| 降魔 |
| 三種の明智 |
| 梵天勧請 |
| 梵天の正体 |
| 初転法輪 |
| 神通についての一つの真実 |
| この名称と形態(nama-rupa) |
| 一切知者 |
| 空住 |
| 半ば経 |
| 犀の角のように |
| 聖なる沈黙 |
| 執着と執著 |
| 苦の滅 |
| 一切皆苦(一切行苦) |
| 諸行無常 |
| 諸法非我 |
| 死の超克 |
| 托鉢 |
| 金剛般若経 |
| 金剛般若経の要旨 |
| 応無所住而生其心 |
| 金剛般若経の偈 |
| 金剛般若経の陀羅尼 |
| 筏の譬え |
| 三世の心は得るべからず |
| 如来 |
| 如来が説く理法 |
| 音声によって如来を求めてはならない |
| 如来の本当の意味 |
| 独特の言い回し |
| 維摩経 |
| 維摩経の要旨 |
| 維摩経の正法 |
| 不二の法門 |
| 煩悩即菩提 |
| 妙喜国 |
| 不思議品 |
| 衆生を観じる |
| 菩薩摩訶薩と方便の説 |
| 法華経 |
| 法華経の要旨 |
| 法華経の正法 |
| 久遠実成 |
| 方便の説 |
| 般若心経 |
| 般若心経の要旨 |
| 般若心経の咒 |
| 心無罫礙 |
| 六祖壇経 |
| 六祖壇経の要旨 |
| 高弟たちへの説諭 |
| 衆生の過患を見ない境地 |
| 三身仏 |
| 大善知識 |
| 維摩経との一致 |
| あとがき |
| あとがき |