仏教について詳しく知らない人でも、仏教が目指す境地が苦しみからの解放であることは聞いたことがあるであろう。これを覚りの境地とか、解脱した境地とか、あるいはニルヴァーナと呼んでいる。それは、苦悩や憂いがまったくない境地であり、静かで安らかな状態が確立されると説かれるものである。要するに、ニルヴァーナは人の究極のしあわせの境地であると言えば分かり易いかも知れない。
さて、この世にはこのような素晴らしい境地があり、しかも誰もが至り得ると聞けば、実際にこの覚りを目指そうと思う人もあるであろう。
ただ、ここで言っておかなければならないことがある。それは、誰もが覚るために必要となる基本的な要素を持っているのは確かであるが、だからと言って誰でも必ず覚ることができるとは限らないということである。つまり、覚りは自然的に起こるできごとではないと理解しなければならない。
もちろん、最初から修行する気がなければ覚りは生じないことや、あるいは間違った修行に勤しんでも覚りには達しないであろうことは読者にも合点が行くであろう。問題は、たとえ正しい修行に勤しんだとしてもついに覚ることがない人も出てくるという事実である。その一方で、まるで修行など行ったように見えないのに覚る人もある。
ところで、修行を始める前から誰が覚り、誰が覚らないか予め決まっているわけではない。つまり、修行する前から覚りの可否を予見することはできないということである。逆に言えば、正しい修行に勤しめば誰もが覚ることが出来ると期待され得ると言うことでもある。したがって、覚りを目指す人は、自分が覚ることができると信じて修行に勤しむべきであるとは言えよう。
読者はすでに混乱しているかも知れない。何かの目標を達成する場合、具体的な方法や手順が存在し、それを履修することによってそれを果たすことができると通常は期待されるからである。しかし、覚りはそのようにして達成される性質のものではない。何となれば、覚りは不可思議なる因縁にもとづいて起こることがらであると知られるからである。
では、この覚りの因縁とは何か?
本書は、この覚りの因縁について述べたものである。
| はじめに |
| はじめに |
| 覚りの因縁 |
| この世の最高のしあわせ |
| なぜ因縁が説かれるのか |
| 微妙 |
| 覚りの因縁とはどのようなものか |
| 覚りの因縁の絶対性 |
| 幸運と因縁 |
| 因縁をつける |
| 弟子達の覚りの因縁 |
| 大きく二つの因縁 |
| 覚りの因縁と智慧 |
| 一大事因縁 |
| 大事と法 |
| 言葉と因縁 |
| 聖なる沈黙と善知識の出現 |
| 気高さ |
| ものを言う口よりも聞く耳が大事 |
| 求めるものは何か |
| 聖求の契機 |
| 熱望と熱意 |
| 仏道を見出す因縁 |
| 人々は覚りの因縁を信じられるか |
| 学識 |
| 功徳と福徳 |
| 諸仏・世尊に親近する因縁 |
| 真の最高 |
| 無常の本質 |
| 遍歴修行 |
| 修行の完成と因縁 |
| 覚りの階梯と因縁 |
| 知足の因縁 |
| 善知識(化身)の出現を見るには |
| 法の句を認知する因縁 |
| 初心 |
| 覚りの障害 |
| こだわりを捨て去る因縁 |
| 神秘体験にこだわらない因縁 |
| 観(=止観)と瞑想 |
| 気をつけることについて |
| 面白いと感じる |
| 努力の前にあるべきもの |
| 好ましいものの先にあるもの |
| 分別 |
| 自らにのみ依拠して自らにのみ依拠して |
| 覚る人の特徴 |
| 寺に居るお坊さんは覚り易いか |
| 過去の祖師は覚っているのか |
| 集団と覚り |
| 経を転じる人と経典に転じられる者 |
| ひねくれてしまう者 |
| 裏切られないものを信じよ |
| 因縁はドラマチックなものではない |
| 雪山童子縁起 |
| 道をまっすぐに歩むということ |
| 誰がために理法は説かれるのであるか |
| 最高の覚りをこそ求めよ |
| 満ち足りている人が覚る |
| 得手を伸ばして |
| 真理を知る利益(りやく) |
| ブッダが理法を説く因縁 |
| SRKWブッダが布教活動には興味がない理由 |
| 私が仏教に興味を持った因縁 |
| 理法の記録 |
| 仏道ならざる道 |
| あとがき |
| あとがき |