この直後、火火出見の名跡を継いだ磐余彦は、兵法極意の「刃に血塗らずして勝つ」を国是に掲げて東征を決意するや、二八五年八月に日向を発ち、橿日宮を目指した。
その結果、仲哀軍が大敗し、仲哀を見限った神功・武内宿禰・日本武らは東征軍に寝返った。
勢いづいた東征軍は、安芸・吉備・出雲を征圧して摂津の六甲山南麓に進攻し、ついで大阪湾・河内湖を横切って生駒山西麓に奇襲上陸したが、惨敗して熊野に迂回した。
三世紀末、熊野から北上した磐余彦率いる本軍、外戚の大山祇・海神本家、分家の海神三神ら諸軍が大倭磯城になだれ込んで日本朝を降すと、火明饒速日は天璽の羽羽矢を差し出し、帰順を願い出てきた。
磐余彦は双方共に火天神の御子と悟ると、帰順を許して軍事筆頭職に取り立てた。
この間、倭の女王は、豊鍬入姫→倭迹迹日百襲姫→神功皇后→倭(迹迹)姫と続いた。
三〇一年元旦、磐余彦(神武)は橿原に都して大和朝廷を開き、その初代天皇(始馭天下之天皇)に即位すると、大倭王開化の皇子・御間城入彦(崇神、初国知らしし天皇)を太子に指名した。
ついで火明饒速日の児可美真手に物部姓と十握剣を授け、海幸彦がかつて火火出見に誓約した宮殿と大和朝廷の守護を厳命した。
冬十一月、可美真手は正殿に天璽の瑞宝十種を奉り、帝と妃の鎮魂を崇め鎮めて長寿を祈った。
三〇四年二月、神武は鳥見山中に天地を具現した日向式柄鏡型前方後円墳(桜井茶臼山古墳)を造営して郊祭し、皇祖天神(天照大御神と高皇産霊)を天に配して皇祖皇宗に奉った。
歴史物語編には、天之国が倭国王朝、倭奴国王朝、天(厳)之国王朝・日本朝、和国、大和朝廷の名で、何度も蘇った歴史が物語風に綴られている。